1セントのハーシーと15セントのリンツなら、73%がリンツを選ぶ。両方を1セントずつ下げてハーシーを0円にすると、今度は69%がハーシーに手を伸ばしました。価格差はどちらも14セントのままです。
通販サイトで、あと少しで送料無料になる、というときの手つきを思い出してみてください。送料は300円、あと500円買えば無料。冷静に考えれば、500円払って300円を浮かせているだけです。それでもカートを開き直して、何か足せるものを探してしまう。
無料は、値段の並びのいちばん端にあるだけの数字のはずです。100円、10円、1円、0円。ところが人の頭のなかでは、最後の1円ぶんだけ段差の高さが違うようです。
1セント下げると、順位が入れ替わる
2007年、カトリーナ・シャンパニエ、ニナ・マザール、ダン・アリエリーの三人が『Marketing Science』に出した「Zero as a Special Price」という論文があります。
大学構内に小さな売り台を出し、通りかかった人にチョコレートを選んでもらう。並べたのは高級なリンツのトリュフと、ふつうのハーシーのキスの2種類だけ。ひとり1個まで、というルールです。
最初の値づけは、リンツ15セント、ハーシー1セント。ここでは73%がリンツを選んでいます。14セント多く出す価値はある、という判断で、特に不思議はありません。
次に、両方を1セントずつ下げました。リンツ14セント、ハーシー0セント。差は14セントのままですから、リンツの割高さは1ミリも変わっていません。それなのに選択は裏返り、69%がハーシーを取りました。損得の計算だけで動いているなら、起きないはずの入れ替わりです。
まず疑われるのは、1セント玉を探すのが面倒なだけ、という散文的な理由でしょう。研究チームはその線も潰していて、支払いの手間をそろえた条件でも結果は変わりませんでした。彼らが検討した候補は社会的な規範、価格の比較のしにくさ、感情の三つ。いちばんもっともらしいとされたのは感情です。0円という表示そのものが良い気分を呼び、それが中身の評価に混ざり込む。
日本の受診記録で確かめる
チョコの実験には、いつもの弱点がついてまわります。学生が10円ぶんの選択をしているだけではないか、というものです。
これに正面から答えたのが、東京大学の飯塚敏晃と重岡仁による2022年の研究「Is Zero a Special Price? Evidence from Child Healthcare」でした。掲載は『American Economic Journal: Applied Economics』。ゼロ価格効果を実際の消費行動のデータで検証した論文としては世界で最初のものだと、大学は説明しています。
材料は日本の子ども医療費助成です。自己負担は原則3割ですが、子どもには多くの自治体が独自の助成をしていて、競争の結果その条件が市町村ごとにばらばらになりました。完全に無料のところ、10%や20%の定率負担のところ、1回200円だけ取るところ。比較の材料が、人為的につくらなくても全国に散らばっていたわけです。
研究チームは人口の多い6県294市町村の2005年から2015年までの助成情報を集め、6〜15歳のレセプトデータと結合しました。無料のとき、月に1回以上外来を受診する確率は43.9%。ここに1回200円の負担を入れると、その確率は約3.1%ポイント下がります。
面白いのは、負担を重くしていったときの動き方です。200円の定額負担と、10%や20%といった明らかに重い定率負担とで、受診の減り方がそれほど変わらない。負担が「あるか、ないか」は大きく効くのに、「いくらか」はあまり効いていない。自己負担率と需要の関係を線で結ぶと、その線は原点を通りませんでした。ゼロ円のところだけ、需要が飛んでいます。
減ったのが誰の受診かも調べられています。健康状態のよくない子どもの受診割合は減らず、比較的健康なのに頻繁に通っていた子どもの分が大きく減りました。処方では、不適切な抗生物質の減り幅が特に大きかったそうです。無料は、必要な人を呼び込むと同時に要らない受診も連れてくる。だから研究は、価値の高い医療は無料に、そうでないものには少額でも負担を、という使い分けを勧めています。
無料にすると、かえって減るもの
とはいえ、これを万能の営業テクニックのように扱うと足をすくわれます。
2025年に『Experimental Economics』へ出たチャン、レーン、グリソリアの研究は、無料にしたときの人数と量を分けて測りました。1セントから0円にすると、手を出す人はたしかに増えます。ところが、ひとりが取る個数のほうは減りました。掛け合わせた総需要は、価値の高い品ではむしろ下がることがあったといいます。理由として測られたのは、社会的な適切さの感覚でした。1セントなら複数もらってもいい気がするのに、タダだと「たくさん取る」ことの感じの悪さが跳ね上がり、1個で手を引く。無料は、人を呼びながら遠慮も呼ぶわけです。
商品によっても違います。ニーマンらが2019年に『Psychology & Marketing』で報告したフリーミアムの研究では、値段が品質の目安として働いている場面ほど無料の魅力は打ち消され、実用一点張りのサービスでは効果がしぼむと指摘されました。タダなら嬉しい、が成り立つのは「タダなのは何かおかしい」に負けない範囲まで、ということです。
出典の話もひとつ。アリエリーが共著者に名を連ねた2012年の『PNAS』論文——書類の冒頭に署名させると自己申告が正直になる、というもの——は、実地調査のデータが捏造されていたことが判明し、2021年に撤回されました。ここで扱った2007年の論文はこれとは別で、他の研究者による検証も積み上がっています。それでも、有名な話ほど出典を一段たどる価値はある、という例ではあります。
送料無料まであと500円、のカートに戻ります。あの手つきは不合理ですが、かなり多くの人と共有された不合理です。そして日本の自治体は、同じ性質を制度の規模で引き当てていました。0と1の間の段差は、ずいぶん大きなものを動かしています。
参考にした資料
- Shampanier, K., Mazar, N., & Ariely, D. (2007)「Zero as a special price: The true value of free products」Marketing Science 26(6), 742–757
- Iizuka, T., & Shigeoka, H. (2022)「Is Zero a Special Price? Evidence from Child Healthcare」American Economic Journal: Applied Economics(DOI: 10.1257/app.20210184)
- 東京大学プレスリリース「子ども医療費『タダ』の落とし穴——医療需要における『ゼロ価格効果』を確認」(2022年9月)
- Zhang, X., Lane, T., & Grisolía, J. M. (2025)「The role of social norms in zero price effects」Experimental Economics 28(5)
- Niemand, T., Mai, R., & Kraus, S. (2019)「The zero-price effect in freemium business models: The moderating effects of free mentality and price–quality inference」Psychology & Marketing 36(8)
- ダン・アリエリー『予想どおりに不合理』(早川書房)「ゼロコストのコスト」の章
- Shu, L. L., Mazar, N., Gino, F., Ariely, D., & Bazerman, M. H. (2012) に対する撤回告知 PNAS (2021)