落書きだらけの郵便ポストでは、お札の見える封筒を抜き取る人が13%から27%に増えました。ただしドイツでの追試では、中身が100ユーロになったとたん、この効果はきれいに消えています。

有名な話には、語り直されるうちに落ちる一文があります。割れ窓理論の場合、それは「窓を割ったのは実験者本人だった」という一文です。

1969年、スタンフォード大学のフィリップ・ジンバルドーは、ナンバープレートを外してボンネットを開けた車を、ニューヨークのブロンクスとカリフォルニアのパロアルトに1台ずつ置き去りにしました。ブロンクスの車は10分でバッテリーとラジエーターを外され、24時間で金目のものがほぼ消えます。パロアルトの車は1週間以上そのままでした。そこでジンバルドーは、大きなハンマーで車の一部を叩き壊します。すると通りがかりの人が次々に加わり、車は数時間で壊されました。

1982年、ジェームズ・Q・ウィルソンとジョージ・ケリングは『アトランティック・マンスリー』誌の論考「Broken Windows」でこの逸話を街全体の話に広げます。割れた窓が1枚放置されていれば「ここは誰も気にしていない」という合図になり、やがて残りの窓も割られる——という筋書きです。

ハンマーの一文は、ウィルソンとケリングの原文にはきちんと書かれています。落ちていくのは、そのあとの語り直しのほうです。ジンバルドー本人も、この実演を「没個性化」、つまり匿名の状況では自制が外れる現象の例として扱っていました。「乱れが犯罪を呼ぶ」という因果の鎖は、13年後に別の人が足したものです。

オランダの街角で測った数字

理屈に実験データをつけたのは、2008年にフローニンゲン大学のケース・ケイザーらが『サイエンス』誌に載せた6つの実地実験でした。街の一角をそのまま実験室として使っています。

たとえば自転車が並ぶ路地で、壁をきれいなままにしておくか、落書きだらけにするか。ハンドルにチラシを挟んでおき、戻ってきた人がそれを地面に捨てるかを隠れて数えます。壁がきれいなときの投げ捨ては33%、落書きがあると69%でした。

残り5つも同じ形です。フェンスに自転車が違法に留めてあると、迂回の指示を無視して隙間をくぐる人が27%から82%に。そして5ユーロ札が透けて見える封筒を郵便ポストから抜き取った人は、周囲がきれいなときで13%、ポストが落書きだらけだと27%でした。

どれも差は大きく、方向はそろっています。ただし1条件あたりの人数は数十人規模で、統計の扱いが甘いという指摘もその後に出ました(2014年、ウィヒャーツとバッカー)。

5ユーロなら効いて、100ユーロでは消えた

2015年、ミュンヘンのマルク・コイシュニックとトビアス・ヴォルブリングが、この封筒の実験を作り直しています。市内2地区の郵便ポストのそばにお札の透けた封筒を落としておき、隣の手すりに壊れた自転車をくくりつけるかどうかで「乱れ」を作る。合わせて540人ぶんの観察です。

結果は、きれいな条件で13.3%、乱れた条件で20.4%が封筒を持ち去るというもので、ケイザーらの数字とよく似ていました。ここまでは追試成功です。

面白いのは、封筒に入れる金額を変えたところでした。5ユーロなら10.0%が21.1%に跳ね上がるのに、10ユーロだと差は弱まり、100ユーロではまったく出なくなります。乱れた風景は、ためらいの小さい行動の背中は押すけれど、本気の窃盗にまでは手が届かない。著者たちはこれを「効果は低コスト状況に限られる」と書いています。

同じ論文の投げ捨て実験では、乱れの効果が出たのは住民のつながりが強い学生寮のほうで、もともと荒れている寮では差がはっきりしませんでした。割れ窓が効くのは、まだ規範が生きている場所だ、ということになります。

街の規模になると、証拠は急に薄くなる

ここまでは「目の前の風景が、目の前の行動を変える」という話です。問題は、そこから「街の乱れを取り締まれば重大犯罪が減る」まで一気に飛べるかどうかでした。

2006年、バーナード・ハーコートとイェンス・ルートヴィヒが『シカゴ大学ローレビュー』誌でニューヨーク市のデータを検証しています。割れ窓的な取り締まりを最も強めた地区は、その直前のクラック蔓延期に犯罪が最も急増した地区でもありました。上がりすぎた数字が戻る動き(平均への回帰)と見分けがつかない、という指摘です。2人は、約4,600世帯を無作為に割りつけて荒れた公営住宅から秩序のある地区へ引っ越してもらった5都市の社会実験(MTO)も並べました。環境が変わっても、犯罪の減少は出ていません。2019年にはダニエル・オブライエンらが96本の研究をまとめ、一貫した証拠は無いと報告しています。

ただし「環境を直しても無駄」という話ではありません。2018年、チャールズ・ブラナスらはフィラデルフィアの空き地541か所を無作為に選んでゴミを片づけ芝を張り、18か月追いました。貧困線以下の地区では、銃による暴力が29%、侵入窃盗が22%減っています。取り締まりではなく、土地そのものを手入れした場合の結果です。

繰り返し確かめられているのは「目の前の乱れが、その場の小さな逸脱を増やす」という部分だけ、と言っていいと思います。机の上の書類1枚から部屋が荒れ始める、くらいの話として受け取るのが、いまのところ証拠に合っています。

参考にした資料

  • Kelling, G. L. & Wilson, J. Q. (1982) "Broken Windows", The Atlantic Monthly
  • Keizer, K., Lindenberg, S. & Steg, L. (2008) "The Spreading of Disorder", Science 322: 1681–1685
  • Keuschnigg, M. & Wolbring, T. (2015) "Disorder, social capital, and norm violation: Three field experiments on the broken windows thesis", Rationality and Society 27(1): 96–126
  • Wicherts, J. M. & Bakker, M. (2014) "Broken windows, mediocre methods, and substandard statistics", Group Processes & Intergroup Relations
  • Harcourt, B. E. & Ludwig, J. (2006) "Broken Windows: New Evidence from New York City and a Five-City Social Experiment", The University of Chicago Law Review 73: 271–320
  • O'Brien, D. T., Farrell, C. & Welsh, B. C. (2019) "Looking Through Broken Windows", Annual Review of Criminology 2: 53–71
  • Branas, C. C. ほか (2018) "Citywide cluster randomized trial to restore blighted vacant land and its effects on violence, crime, and fear", PNAS 115(12): 2946–2951