給湯室の料金表に目の写真を貼ったら、支払いが2.76倍になった——2006年の有名な実験です。ただし根拠は10週間ぶんの牛乳の量でした。その後のメタ分析では「人が寛容になる」効果は見つからず、代わりに別の効果が残っています。
イギリス・ニューカッスル大学の心理学部門には、お茶とコーヒーの代金を自分で箱に入れる仕組みがありました。紅茶30ペンス、コーヒー50ペンス、牛乳10ペンス。料金表はA5サイズの白黒の紙で、給湯室の戸棚の扉に目の高さで貼ってあります。誰が払ったか、そもそも払ったかは、部屋の造り上まず見られません。
2006年、その料金表の上端に、幅15センチほどの帯が足されました。ある週は花の写真、次の週は人の目の写真。それだけです。研究者はメリッサ・ベイトソンら3人で、48人の職員は実験が行われていることを知りませんでした。
記録されていたのは、牛乳が何リットル減ったか
この実験の測り方が少し変わっています。
毎週、箱に入っていた金額を数える。同時に、その週に消費された牛乳の量を量る。飲まれた量の目安がそれしかないからです。そして「牛乳1リットルあたり何ポンド払われたか」を計算する。忙しい週と暇な週の差を打ち消すための工夫でした。
10週間の結果はこうです。目の週は1リットルあたり0.417ポンド、花の週は0.151ポンド。比にして2.76倍。花から目に切り替わった週は必ず金額が上がり、目から花に戻った週は必ず下がりました。
写真は毎週違うものが使われ、目の主の性別や顔の向きもばらばらでしたが、どれも正面をまっすぐ見ているものが選ばれています。論文は『Biology Letters』に載り、「監視の目効果(watching eyes effect)」という名前とともに、防犯ポスターや自治体の啓発チラシに広く借用されていきました。
ここで一度立ち止まると、この2.76倍を支えているデータ点は10個です。ひとつの給湯室の、10週分の週次集計。統計的な差は出ていますが(p=0.011)、比較しているのは目の5週と花の5週ということになります。2011年にはカルボンとヘスリンガーが元の手続きと統計を検討し直したうえで再現を試み、はっきりした効果は得られなかったと報告しています。
自転車は盗まれなくなった。隣の駐輪場では増えた
同じ研究グループは2012年、給湯室を出て屋外で試しました。ニューカッスル大学構内で自転車の盗難が多かった3か所の駐輪場に、目のイラストと「自転車泥棒、見ているぞ」という文言の看板を掲げ、設置の前後12か月ずつ、届け出のあった盗難件数を数えたのです。
看板を出した場所での盗難は62%減りました。ここまでは期待どおりです。ところが同じ構内の、看板のない駐輪場では盗難が65%増えていました。
論文はこの数字を隠さず載せ、犯行が場所を移った可能性が高いと書いています。抑止できたのは「盗もうとする気持ち」ではなく「ここで盗むこと」だった、という読み方になります。街の一角の防犯ポスターが街全体を安全にするとはかぎらない、という話でもあります。
「人が優しくなる」ほうは、集めても出てこなかった
2017年、ノースオーバーらのグループが、この主題の実験をまとめて数え直しました。独裁者ゲームや寄付の場面で、目の画像があると人はより多く与えるのか。2つのメタ分析の参加者は、のべ2,732人と19,512人。結論は、与える額にも、そもそも与えるかどうかにも、効果は認められない、というものでした。
一方、2019年にディアらが行ったのは、対象を「反社会的な行動」に絞ったメタ分析です。ポイ捨て、備品の持ち去り、規則違反。13本の論文から15の実験、2,035人分を集めたところ、目の存在は迷惑行為のリスクをおよそ35%下げていました。
並べると、線がどこに引かれているのかが見えてきます。目は、人を気前よくさせる力はたぶん持っていない。けれど、見られていたら気まずいことを思いとどまらせる力は、それなりに残っている。もともと守るべき決まりが存在していて、破っても誰にも見られない——そういう場面でだけ効く、という整理です。給湯室の料金表も、駐輪場の看板も、まさにその形をしていました。
思い返せば、あの実験の参加者たちは「払わなくてもいい」とは一度も思っていなかったはずです。払うべきだと分かっていて、けれど誰も見ていない。目の写真がしたのは、新しい善意を生むことではなく、すでにあった建前を思い出させることだったのでしょう。効果が2.76倍だったのか、もっと小さかったのかは、正直まだ決着していません。
参考にした資料
- Bateson, M., Nettle, D., & Roberts, G. (2006). "Cues of being watched enhance cooperation in a real-world setting." Biology Letters, 2(3), 412–414.
- Carbon, C.-C., & Hesslinger, V. M. (2011). "Bateson et al.'s (2006) Cues-of-Being-Watched Paradigm Revisited." Swiss Journal of Psychology, 70(4), 203–210.
- Nettle, D., Nott, K., & Bateson, M. (2012). "'Cycle Thieves, We Are Watching You': Impact of a Simple Signage Intervention against Bicycle Theft." PLOS ONE, 7(12), e51738.
- Northover, S. B., Pedersen, W. C., Cohen, A. B., & Andrews, P. W. (2017). "Artificial surveillance cues do not increase generosity: two meta-analyses." Evolution and Human Behavior, 38(1), 144–153.
- Dear, K., Dutton, K., & Fox, E. (2019). "Do 'watching eyes' influence antisocial behavior? A systematic review & meta-analysis." Evolution and Human Behavior, 40(3), 269–280.