匂いで思い出す記憶は、言葉や写真で思い出す記憶より「古い」。93人を調べた2006年の研究では、匂いで出てくる記憶だけが10歳より前に集中していました。ただし、その記憶が鮮明かというと、そこは実験の答えが少し違います。
紅茶にひたしたマドレーヌをひとくち食べたとたん、忘れていた子ども時代の町がまるごとよみがえる。マルセル・プルーストが1913年の『失われた時を求めて』第一篇に書いたこの場面から、匂いが記憶を連れてくる現象は「プルースト効果」と呼ばれるようになりました。
ただ、この有名な菓子には前史があります。フランス国立図書館が公開した草稿によると、1907年の段階でそれは固くなったパン(pain rassis)で、1908年の稿ではトーストとラスクのようなビスケットでした。マドレーヌにたどり着くまで、何度も書き直されていたわけです。
匂いの記憶だけ、思い出す時代がずれる
この問いにいちばん直接的な答えを出したのが、ストックホルム大学のヨハン・ウィランダーとマリア・ラーションが2006年に『サイコノミック・ブレティン&レビュー』誌に発表した研究です。題名は「匂いで子ども時代へ帰る」。
やり方は単純です。93人の高齢者に、ある対象を匂い・言葉・写真のいずれか一つの形で提示し、それにまつわる自分の出来事を話してもらう。そして、その出来事が何歳のころだったかを記録していきます。
結果ははっきり分かれました。言葉や写真をきっかけにした記憶は11歳から20歳あたりに山ができます。これは自伝的記憶の研究でよく知られる「レミニセンス・バンプ」、つまり思春期から青年期の出来事が思い出されやすいという定番のかたちです。ところが匂いをきっかけにした記憶だけは山の位置が違い、10歳より前に集まっていました。
つまり匂いは、言葉や写真では届かない棚から記憶を引っぱり出している。言語をまだ十分に持っていなかったころの時間に、匂いだけが手を伸ばせるらしい、ということになります。
「鮮明」ではなく「感情的」だった
では、その記憶は鮮やかなのでしょうか。ここで話の向きが変わります。
ブラウン大学のレイチェル・ハーツとジョナサン・スクーラーが2002年に報告した実験では、同じ対象を匂い・その写真・その名前の三通りで提示して、出てきた記憶を細かく比べました。匂いで思い出したときの記憶は、たしかに感情の強さの評定が高く、「その場に引き戻された」という感覚も強く出ています。
ただし、記憶の内容そのもの——どれだけ細部を含んでいたか、どれだけ具体的だったか——には、きっかけによる差が出ませんでした。匂いの記憶が特別なのは情報量ではなく、感情のほうだったわけです。私たちが「鮮明によみがえった」と感じるとき、実際に増えているのは細部ではなく、そのときの気分なのかもしれません。
同じハーツらが2004年にfMRIで撮った研究では、本人にとって意味のある香りで思い出しているときに扁桃体と海馬まわりの活動が強く出ています。感情の話と脳の話がつながる、きれいな結果ではあります。ただし参加者は5人。この人数で断定するには足りない、という点は押さえておいたほうがいいと思います。
「嗅覚だけ脳に直結」はどこまで本当か
プルースト効果の説明としてよく出てくるのが、「嗅覚だけが視床を経由せず、感情や記憶の中枢に直結している」という言い方です。これは半分正しく、半分は端折りすぎています。
正しいのは前半です。視覚や聴覚の信号が視床でいったん中継されるのに対し、嗅球から一次嗅皮質へは視床を挟まない経路があります。ここは他の感覚と明確に違います。
ただ、嗅覚が視床と無関係というのは言いすぎでした。梨状皮質から視床の背内側核への投射があり、その背内側核は眼窩前頭皮質と密につながっていて、匂いの識別や学習、注意に関わっていることがわかっています。直通の道が一本あるのは確かですが、視床を通る道も並行して走っている、というのが現在の見取り図です。
香りを勉強のスイッチにできるか
ここまで来ると、実用のほうが気になってきます。勉強するときに決まった香りを焚いておいて、試験のときに同じ香りを嗅げば思い出しやすくなる——そういう話を聞いたことがある人は多いはずです。
出どころは1990年のフランク・シャブの実験で、チョコレートや防虫剤の匂いを覚えるときと思い出すときの両方に置いておくと、24時間後の成績が上がったと報告されています。理屈としては文脈依存記憶、つまり「そのときと同じ環境だと思い出しやすい」の匂い版です。
問題は、その後の追試がそろわなかったことです。抽象図形の再生と再認では効果が出ず、一度解いた問題をもう一度解く課題でも、子どもがマジックショーの内容を報告する正確さでも、匂いを合わせた効果は確認されませんでした。手がかりとして目立つ匂いかどうかが分かれ目ではないか、という説明はありますが、まだ決着していません。
匂いが古い記憶を連れてくること自体は、かなり確からしい。けれど、それを自分の都合で呼び出すスイッチにできるかというと、そこはまだ研究が揺れている段階です。プルーストの主人公も、思い出そうとして思い出したわけではありませんでした。マドレーヌを口に入れた瞬間に、勝手に来てしまった。手綱を握れないところが、この現象のいちばん人間くさい部分なのだと思います。
参考にした資料
- Johan Willander & Maria Larsson (2006) "Smell your way back to childhood: Autobiographical odor memory", Psychonomic Bulletin & Review
- Rachel S. Herz & Jonathan W. Schooler (2002) "A naturalistic study of autobiographical memories evoked by olfactory and visual cues: Testing the Proustian hypothesis", American Journal of Psychology
- Rachel S. Herz, James Eliassen, Sophia Beland & Timothy Souza (2004) "Neuroimaging evidence for the emotional potency of odor-evoked memory", Neuropsychologia
- Frank R. Schab (1990) "Odors and the remembrance of things past", Journal of Experimental Psychology: Learning, Memory, and Cognition
- Courtiol & Wilson (2015) "The olfactory thalamus: unanswered questions about the role of the mediodorsal thalamic nucleus in olfaction", Frontiers in Neural Circuits
- 嗅覚の文脈依存記憶に関する追試のまとめは Learning & Memory 誌の総説(2022年、匂いによる文脈依存記憶の宣言的・非宣言的指標への影響)を参照
- マルセル・プルースト『失われた時を求めて』第一篇「スワン家のほうへ」(1913年)、および草稿の変遷はフランス国立図書館の展示に基づく報道(Fine Books & Collections)