危険のサインを見ても、人はそれを「いつもの範囲のできごと」と受け取りがちです。災害で命を分けるのは、パニックよりもむしろこの「すぐには動かない」ほうだと考えられています。

約6分。2001年9月11日、世界貿易センタービルから生きて脱出した人たちが、異変に気づいてから階段を下り始めるまでにかかった時間の平均です。

ビルに飛行機が突っ込み、建物が揺れ、窓の外には煙が見えている。それでも人々はすぐには動きませんでした。パソコンを終了させる、上司や同僚に話しかける、家族に電話をかける、窓の外を確かめる。中には30分ほど席を離れなかった人もいたそうです。

この数字は、アメリカ国立標準技術研究所(NIST)が900人近い生存者に聞き取りをした調査に基づくもので、ジャーナリストのアマンダ・リプリーが2005年の『TIME』誌の記事と、2008年の著書『生き残る判断 生き残れない行動』で紹介して広く知られるようになりました。しかもこれは助かった人だけの数字です。逃げ遅れて亡くなった人たちには聞くことができないので、実際の平均はもっと長かった可能性があります。

異常を「いつもの範囲」にしまい込む

人の頭は、ふだん起きる小さな変化にいちいち反応しないようにできています。物音がしても、警報器が誤作動しても、「たぶん何でもない」と流せるから、毎日を疲れずに過ごせる。日本の災害心理学では、このはたらきが本物の危険の前でも続いてしまうことを「正常性バイアス」と呼んできました。災害心理学者の広瀬弘忠さんが2004年の『人はなぜ逃げおくれるのか』で詳しく取り上げ、その後、防災の現場で広く使われる言葉になっています。

NISTの研究者たちが生存者の証言を細かく分析すると、意外な傾向も見えてきました。周りから情報をたくさん集めた人や、逃げる前にあれこれ準備をした人ほど、避難を始めるのが遅かったのです。「本当に危ないのか」を確かめようとするほど、時間が過ぎていく。英語圏の災害研究では、人が集まって情報を確かめ合うこの段階を「ミリング(milling)」と呼ぶことがあります。

確認したくなる気持ち自体は、おかしなものではありません。誤報で毎回逃げていたら生活が成り立たないからです。ただ、火や煙は確認が終わるのを待ってくれません。

「座ったままで」の放送と、動かない周り

2003年2月18日、韓国・大邱(テグ)の地下鉄の駅で放火による火災が起き、192人が亡くなりました。被害が大きくなった理由のひとつは、反対側から駅に入ってきた1080号の列車でした。運転士は乗客に席にとどまるよう車内放送を3回流したことが、のちに公開された交信記録からわかっています。その後、運転士は車両の操作キーを抜いて逃げ、電源が落ちたドアは手動で開けるしかなくなりました。

この火災は日本の防災資料でも、正常性バイアスの例としてよく挙げられます。煙が入ってきても「放送が待てと言っている」「周りの人もまだ座っている」。自分だけ立ち上がるのは、思っている以上にむずかしいことです。周りに合わせてしまう心理は「同調性バイアス」と呼ばれ、正常性バイアスと重なると、さらに人を動かなくします。もっとも、乗客一人ひとりがその場で何を考えていたのかは、誰にも確かめようがありません。あくまで「そう解釈されることが多い」事例です。

パニックより怖いのは「固まる」こと

災害の場面というと、人々が叫びながら出口に殺到する光景を想像しがちです。けれど、アメリカの社会学者エンリコ・クアランテリが50年にわたっておよそ700件の現地調査を重ねた結果、パニックと呼べるような行動はごくまれにしか見つかりませんでした。災害のときの人は、思われているよりずっと冷静で、互いに助け合うことが多いのです。

かわりに問題になるのが「固まる」ことです。イギリスの心理学者ジョン・リーチは2004年、船や飛行機の事故の証言や調査報告を分析し、緊急時に人が動けなくなる反応がよく報告されていることを論文にまとめました。よく引用されるのが「落ち着いて動けるのは10〜15%、7割以上は呆然として考えが回らなくなる」という見立てです。ただしこの割合は厳密な測定の結果というより経験にもとづく目安で、紹介する資料によって70%だったり75%だったりします。数字そのものより、「ほとんどの人はとっさに正しく動けない」という傾向のほうを受け取っておくのがよさそうです。

つまり、パニックを起こさないように情報を伏せるより、早く・はっきり伝えるほうが人は助かりやすい、というのが災害研究の大きな流れです。自分の側でできるのは、迷いそうな場面の答えを先に決めておくことかもしれません。「この警報が出たら、確認せずに出る」と決めてあれば、その場で「まだ大丈夫かどうか」を考える時間そのものを省けます。

参考にした資料

  • Ripley, A. (2005). How to Get Out Alive. TIME./アマンダ・リプリー『生き残る判断 生き残れない行動』(原著 The Unthinkable, 2008)
  • Kuligowski, E. D. ほか, NISTによる世界貿易センター避難者の行動調査に関する報告・論文
  • 広瀬弘忠(2004)『人はなぜ逃げおくれるのか ―災害の心理学』集英社新書
  • Quarantelli, E. L. (2008). Conventional Beliefs and Counterintuitive Realities. Social Research, 75(3).
  • Leach, J. (2004). Why people 'freeze' in an emergency: temporal and cognitive constraints on survival responses. Aviation, Space, and Environmental Medicine, 75(6), 539–542.
  • 大邱地下鉄火災に関する報道(AP通信、Korea JoongAng Daily ほか)、国土交通省の地下鉄火災対策に関する資料